‘旅’

緊張の中で準備 / 中東行き(前編)

2014/08/16 Categories:

中東に向けての出発準備、、、、。

これを説明するには、一体僕が何のために行くのかを、ここで再び説明する必要があるだろう。

、、、昨年の夏、タオサンガ世界大会を10年ぶりに行った。

タイのジョムチェン・ビーチで世界各地から総勢183人が集まり、二週間に亘って、まあワークショップのような、お祭りのような、修行のような、遊びのような、それらを全部合わさったようなものを行ったのだ。

※詳細は昨年のブログ「タイ大会はハチャメチャ楽しいぞ」http://endo-ryokyu.com/past_blog/?m=201308 をご覧下さい

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この大会の最終日に、ヨーロッパのタオサンガが、あるプロジェクトを発表した。

それは、終戦70年目の2015年、ヨーロッパの各地で音楽念仏の法要やらワークショップやらフェスティバルのようなものをツアーで行う“ピース・キャラバン”のプロジェクトである。

この時、僕は「おお! いいじゃん、それ。ヨーロッパのみんな頑張ってね!」とだけ、言っておけば良かった。

、、、しかし僕はつい言ってしまった。「それって、さぁー。もし“広島からエルサレムまで”っていうのを付けたら、もっとかっこいいんじゃない?」、、、この瞬間、僕の運命は決定した。

というのは、イスラエル / パレスチナにつながりがあって、エルサレムでイベントをやる話をつけに行く人間は僕しかいない。

そして日本に住んでいて、広島でイベントやれるように動くのも僕しかいない。なら、そのどちらも自分がやるしかないのである。

ひぇ〜。こうして、どんな重力をも乗り越えて成層圏を飛び出すロケットのように、あらゆる自分の状況には目をつむって、僕は動き出さなければならなかったのである。

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そして今は2014年夏。この時にプロジェクトをスタートさせなければ、機を逸する。タイミングをはずせば、ものごとは起こらないことを僕はよく知っている。

それから、自分1人でやる覚悟がなければ、どんなことも成就しない、ことも。

「言ったのにやらなかった」などというのでは、ハラきりものである。

 

というわけで、広島や日本のことで動き出したのが、7月初旬。中東の日程を決めたのもその頃というぎぎりぎりのタイミングだった。そしてそのギリギリのタイミングとは、まさにイスラエル軍のガザ空爆が始まるのでは、とうわさされている時でもあった。

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しかし僕が一番恐れていたのは、危険性についてではなかった。もちろんガザ市民のために空爆は恐れてはいたのだが、僕においての恐れとは、イスラエルに入国拒否されることだった。

これは事情を知らないとわかりにくいかも知れない。

パレスチナはイスラエルの完全占領下にあり、直接入ることはできない。パレスチナは、ヨルダン河西岸とガザ地区とに分かれているのだが、ガザはイスラエル軍に完全封鎖されていて、イスラエル当局の特別な許可がない限り入れない。(かつてはガザ国際空港があったらしいが)

マスコミは、イスラエルとパレスチナの対立とか紛争とか言っているけど、それ自体、いかにマスコミが情報操作されているかの証明である。

考えてみて欲しい。日本が朝鮮半島を占領していたとき、独立抵抗運動が起こり(そりゃそうでしょうよ。不当に自由を奪われて抵抗しない人間がいるはずがない)、それを対立とか紛争と言うだろうか? (←言うはずねーだろ)

でも、まあテロとは言うだろう。でもその前に日本がテロをやって占領したのだ。それをイスラエルとパレスチナに当てはめて考えてみたら良い。抵抗運動を弾圧し、民間人を殺しても、それを対立紛争と言い、そして戦闘と呼んでいるのは、言葉のマジックである。

なんせ、みんなイスラエルとパレスチナは対立し、紛争し、戦争やっていると何となく思っているのだから。

さて一方のパレスチナ西岸地区は、イスラエルのベングリオン空港から行くか、ヨルダンのアンマンから陸路で行くかなのだが、どちらから入るにしてもイスラエルの厳重なチェックを通り通らなければならない。

もちろん、ただの観光客というだけなら、テルアビブに向かう飛行機が出発する空港で、イスラエルの面接官に面接を受け、普通に受け答えをすれば入国拒否されることはない。(パレスチナ側に行くとでも言わなければ)

しかし半年前、オリバーの知り合いの医者20人がパレスチナの人道支援のために向かい、ベングリオン空港で全員が入国拒否にあったという。

また昨年、パレスチナでは、占領反対のための国際的な平和ウォークを企画した。これは元アウシュビッツ収容所にいたというおばあちゃんまでニューヨークから参加するというほど盛り上がりを見せ、相当数のインターナショナルな活動家が向かったものの、やはり空港で多数が入国拒否されたという話も聞いた。

いや、何としてでも入国を果たし、プロジェクトを成就させたい。僕はどんな手段を使ってでも入国するつもりだった。

普通に観光客を装って入国すれば良いではないか、と思われるだろう。しかし僕が心配するのにはわけがあった。というのは5年前、イスラエル側にはまったく行かず、パレスチナの各地で活動した。そして出国の際に、空港で止められた。

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空港で聞かれても、パレスチナにいたことは口にしないこと。写真データなど、パレスチナにいたことを証明するようなものは事前に郵送しておくこと。イタリア人ジャーナリストから、事前に情報を得ていた僕は、すべてその通りにしていた。

しかし面接官の質問のところで「あなたは、テルアビブの友人のところにいたと言いましたが、その奥さんの名前は何ですか?」

げっ!

事前に友人を語ってくれる人の名前と電話番号は用意していた。しかし、奥さんの名前までは聞いていなかった。「いやー、風邪ひいていて出てこなかったんで、名前わからなかったですねー」

、、、そしてその刹那。僕は、あっと言う間に5人の保安要員に取り囲まれ、別室に連れて行かれたのだった。


ー続くー

 

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どんなことを想像すると僕は幸せになるか? (オランダにて)

2014/07/07 Categories:

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< 1日だけ、午後にアムステルダムをうろつくことができたー!>

 

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 <ビッグマスターことロブとみわさんの3人で、ギリシャ料理店へ。実はこの前日、僕は1人で入っていたのだ。

そしてその時、生まれて始めての体験をした。僕が何か別のことを考えながら、払うつもりで財布を見ていたら、何と1人の青年がやって来て、「お金ないの? 上げるよ」と言って、20 ユーロ(2000円ぐらい)カンパしてくれたのである。

ひぇー!! 断るのも好意を無視するようで悪い、、、。それで、何度を何度もお礼を言って、ありがたーく頂いた。、、、涙。その青年は片足が義足だった。しばらく心が暖かかったな、、、。>

 

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<この店で働いている左の女の子は、僕がランチを食べている間、じーっと僕の顔を見つめ続けていた。そこで僕は、ウインクしたり、そんなに見つめちゃイヤンとばかりに、面白い顔をしたりして遊んでいた。

トルコからの移民なので英語は話せなかったけど、後で、右の女の子が解説してくれたところによると、彼女は僕の顔を見ていると、、、、あれっ、何て言ったんだっけ? 忘れてしまった、、、。

まあとにかく、ここは特殊学級出身の人を積極的に雇っているお店とのことだった。日本にもこういう店が増えるといいなー。楽しいもん>

 

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<みわさんのクリニックが入っているのは、身体障害者の施設なんだけど、そこの廊下に何点か写真が展示してあった。「これって、東京のすなおさんという人によく似ていますねー」と言ったら、「本人ですよ」って。ああ、びっくり。

気仙沼でのボランティア活動の写真展だったのだ。そういえば、僕も行ったんだけど、すっかり忘れていたのだった>

 

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<オランダ・サンガの2人。ロブとみわさん>

さて、ヨーロッパ行脚の最終地のオランダに来たら寒かった。ひぇ〜。2日目に宿を変更して、やっと一息ついた。ここでも6日間過ごす。連日やることは同じといえば同じ。

ただし妙な表現だけど、それぞれの場所で、タオサンガ的な意味での「時代」が違う。

ではまず、その「時代」という意味について説明しよう。(ただし、これはタオ指圧のことなので、一般読者の方にとって面白い内容かどうかはわからない)

えー、さて最初は涙ながらに語る話、、、。

タオサンガは、タオ指圧から始まったが、タオ指圧を学びに来る人の心境は、時代によって随分と異なる。

例えば最初の頃は、「利他」なんていう言葉は誰も知らず、「はあ?」と言われた。(それで、あまり利他については言わないようにした)

だから仏教の「ブの字」でも言おうものなら、アヤしい宗教と思われた。(それでクラスでは一切、仏教の話を15年ほどしなかった)

また、NPOユニを立ち上げる前だったが、スリランカに井戸を創る話をしただけで、「先生は卑怯よ!」と陰口を言われたものである。(寄付をお願いしたわけでもないのに〜)^ ^;)

(ただ僕は、陰で誉められるよりは、悪く言われた方がよほど気楽なので、まったく気にならない。逆に誉められたりしていたら、良い人として振る舞わなければまずいなー、とか思って緊張してしまうので、誉められる方がむしろ苦手である。

持ち上げられるよりは、悪く思われているほうがよほど気楽で良い、というのだから、←まったくアマノジャクな奴だ)

言ってみれば人がタオ指圧に求めているのは、これの治療技術を身に付けて、まあありていに言えば、それをビジネスに生かすことだった。

入門してタオ指圧の心技を継承するために来る人はまずいなかった。今にして思えば、消費者の1人として”習い事”として来ていたのではないだろうか、と思う。

ビジネスマンか消費者か、その二者しかいない今の世の中で、それ以外のものを想像することは難しかった(あるいは、難しい)のだと思う。

またそう考えれば、仏教の修行もクラス以外の利他の奉仕活動をすることもない、ということも理解できる。そりゃ、何の得にもならないものな。

まあ、そういう時代だった。

もちろん、それでタオ指圧ができるようになるならば、それで気を認識し証診断ができて、経絡治療ができるようになるならば僕には何の問題もない。

いや、むしろそうであって欲しいぐらいだ。いやがる人に修行や利他の社会奉仕活動をさせるなんていう悪趣味は僕にはない。

そんな時間があったら、旅をして音楽をやってチャリティックスやって遊んでいたい。(心底そうだぜい)しかしそれでは、経絡がわかるようにはならないんだよ〜。(、、、と涙声)

だからと言って、ビジネスライクに形だけ教え、無責任に免状だけ出すなどという罰当たりなことは僕にはできない。(できたら楽なんだろうけど、マジメさが邪魔しちゃってできないんだよ〜、とまた涙)

僕が指圧を教えるようになったわけ

僕が人にタオ指圧を教えるようになったのは、二十代の中頃に証診断ができるようになり、これの継承という責任を負ったからである。だからクラスをやっているのは、他の人が経絡治療できるようになるためである。

それにしても、よりによって何でまた僕が、そんな責任を負うことになったのか、、、とよく思ったものだ。(実は今でもたまに、、、)

“タオ指圧をしたら早く治り過ぎてビジネスとしては不利になる”という言葉を耳にしたこともあった。(後で聞いたら、”そんな気持ちで言ったわけではない”と説明されて、ああそうだったんですね、と一応それなりに納得はしたが。

しかしその時は、言葉通りに理解するしかすべがなく、僕は、“自分の世代でタオ指圧が理解されることはないだろうなぁ、、”と思ったものだった。

、、、それでも僕はやり続けなければならなかった。

書籍を書き続けたのも、実は後世に残すためであった。そしてそんな「時代」は長く続いたし、生きている間ずっと続くのだろうと思っていた。

しかし「時代」は、僕が考えていたより、よほど速く進んだ。一般の世の中でも、ライト兄弟以前は「鉄が空を飛ぶわけがないじゃん」と”科学者”に言われていた。それが初飛行の66年後、人類は月に到達したのである。(これの真偽については今は問わない)これと同じようなことが、タオ指圧でも起こり始めた。

今、学んでいる人には信じられないかも知れないが、最初は全身二十四経絡や超脈を、荒唐無稽なこととして否定する生徒さんすら普通だったのである。

それが今は逆転して、むしろ最初からそれらを前提として学びに来ている。それどころか、真の意味でタオ指圧が実践されるようになる時代は、目の前まで来ているのである。

また話は戻るが、先に述べたように、かつては仏教のブの字も言えなかった時代が長くあった。今は最初から仏教、念仏を前提として学びが始まるようになった。ようやく新しい時代が始まったのである。

ということは、だ。

今後はどうなっていくのだろうか? 次の時代にはどうなるのだろう?

 、、、それは明白である。やがて人々は、仏教(念仏三昧)の修行を前提として、タオ指圧を学びに来るようになるのである。(それが、いつかはわからない。が、時代の変化は思っているよりも早い)

そしてその後の時代には? 利他行(奉仕活動=クリエーション)をすることも、当たり前になって行く時代になる。最初からそれを前提として学び始める。

タオ指圧の学びが、そこから始まることを、「未来の彼ら」は知っている。

今や、ネットが生活の1部であることが当たり前であるよううに、世の中とは、常に、「現在の最先端が、未来の前提となる」ものなのである。。

タオ指圧は世界を変える。利他を当たり前とする世の中になるためにあるのが、タオ指圧だからだ。

念仏とタオ指圧、霊技一体の指導法が生まれたのは、今の「時代」を迎えるためだと思う。そしてもちろん、ここからさらに、タオ指圧の心技は発展して行くことだろう。

とまあ、タオ指圧の「時代」の話はここまで。

オランダでは?

残念ながらオランダで、最先端までの内容はできなかった。(←まあ当たり前だろうが)それでも今の時代、いや理想の未来という時代に、一瞬でも近づいてもらいたい。ただそれだけを痛切に願って、精魂傾けた日々であった。

残念至極だったのは、チャリティックスを持って来なかったこと。フレデリックという、中学校の音楽の先生がいたからである。彼は、授業で音楽念仏を教えたいと言うほど、ぶっ飛んだ人なのだ。(元プロのミュージシャンである)

バングラディシュではラジョーさん(NPOユニの現地所長)も、小学校に念仏とチャリティックスを教えに行っている。もしフレデリックも同じように念仏とチャリティックスを学校でやったら、、、、。

バングラディシュとは姉妹校のようなものになる。そしてオランダの中学生たちがバングラディシュに行き、ラカインの子供たちと一緒に、現地で念仏とチャリティックスをやったら、、、。

いやー、さぞ面白いだろうなぁー。楽しいだろうなー。(こんなたわいもない想像で、僕は幸せな気持ちになるのだ。とても、安上がりである。ふふふ)

オランダとバングラディシュを結ぶ音楽念仏とチャリティックス! 
世界各地がそんな風に結ばれることだって可能なのだ。

理想の未来は間近だ!

僕は、そう信じて生きている。

※チャリティックスの哲学については、月刊タオサンガの「住職に聞く!」コーナーをご参照下さい。

 

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軍隊調のウエイトレスを女の子の表情に変える術はあるか?(ドービン市)

2014/06/18 Categories:

スイス国境近くのドーンビン市に移動。同じ国内に行くのに、チューリッヒ空港、つまりスイスまで一旦飛行機で行く。チューリッヒからドンビエンは2時間の距離。ライナーという人が迎えに来てくれた。

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<スイスからオーストリアに向かう途中、怪しげな雲が、、、>

 

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<うーん、飛行機雲だろうか?>

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<それとも、もしかしたら、これがウワサのケムトレイルだろうか? この後、僕は2、3日咳や鼻水が出ていた>

まあそれはいい。

ここドーンビンに新しいタオサンガ・センターができた。今回は、道場の落慶式やらワークショップをする。

創設したのは、念仏者で昨年タオ指圧指導員になったオリバーである。

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<タオサンガセンターを開いたオリバー>

(そういえば、昔オリバー君という人がテレビに出ていた。なんでも猿の染色体を持っている人間という触れ込みだった。

オリバーの背中の毛を見ると、「そういえば、昔テレビに出ていたオリバー君は、今頃どうしているだろー?」と、つい思う、、、。まことにアホな話で申し訳ないが)

道場オープンデイで何をしたら良いか?と相談された。そこで僕は、道場各部を回る、スタンプ・ラリーをしたら?と提案した。

来場者は、まず受付で道場内の地図(大きな部屋が2つと広いテラスがある)をもらう。

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<センターにはテラスまである>

その地図には順路が書いてある。(観光寺院の拝観順路みたいなものと思って頂ければ良い)

大きな部屋の四隅では、気のテスト、気と心のワーク、気心道などをそれぞれ体験して回る。

その後、チャリティー指圧の部屋に移動し、指圧を受ける、という仕組みである。

こうして来場者は、タオサンガの様々な気の世界を体験をできるという仕掛けである。

当日それを実行した。メディアの人も来て写真を撮って行った。

 

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<向かって右から二番目が生愛(せいや)さん。ローマ在住>

 

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<観音くんと。なぜ僕は、子供と一緒に写ると、その子と同じような表情になるのだろう?>

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<この時もそう。2、3年前のイタリアでの写真。こうた君とも、なぜか同じ表情で写っていた>

連日やることがいろいろあるので、ドーンビンには6日ぐらい滞在したのだが、投宿して驚いたことがある。トイレが半透明ガラスの上、何とトイレにドアがないのである!

これが4つ星ホテルで90ユーロ(1万円以上)もすると聞いて、尚驚いた、、、。東南アジアだって、シングル・ルームならトイレがあればドアぐらいあるぞ。

いっそ写真を撮ってブログに載せようと思ったが、トイレの写真を観て喜ぶ人がいるとも思えないので、ブログで文句を言うだけで我慢しよう、っと。

 

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<トイレの話のお口直しに。撮影は、生愛(せいや)さん>

 

話は変わって、法要、ワークショップなどのイベント写真が続きます。

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<「では、これから落慶法要を始めます」と、簡単な法話>

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<法要>

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<念仏を唱える皆さん>

 

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<法要後のパーティ>

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<翌日はタオ指圧ワークショップ。>

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<左はスペインで指導しているベレン>

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<タオ指圧の学びは常に直面的。時には、1人1人に向き合って話すことも>

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<右はイタリアのロリダナ。左はローマ在住の純さん>

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<ワークショップ後に、子供念仏タイム>

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<子供たちも念仏して欲しい、と見守る母アリス>

 

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<来年のキャラバンの相談>

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<イベントが終わって、一安心>

 

ドーンビンは小さな街。オリバーとバーベルによると「庭園のような市」と呼ばれているそうだが(一応、人口40万人)、僕は逆に「あぁ、街のような庭園ね。^ ^)」と言って、彼らをからかって遊んでいた。

どこへ行っても人をからかって遊ぶのは、「僕のワルい癖」らしい。(まゆさん談)

 

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<左はベアベル。NPOユニ担当>

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<教会前の広場。来年のキャラバンでは、ここでフェスをやってLIVE音楽をやろう! と話している>

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<軍隊調のウエイトレスだったので、どういう風に接したら雰囲気が変わるか、興味を持った僕。

そこで、「あなたの写真撮らせてくれない?」と言ってパチり。ちょっと女の子っぽい雰囲気になったぞ。ふふふ>

 

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チャリティックスの天才、ウィーンに現れる!  

2014/06/15 Categories:

前回のブログに出てきた、収容所記念館が語ってる無言のやり取り、「てめえら忘れんなよ」、「はい、忘れません」について、少しだけ補足説明をしておきたい。(はじめて本ブログをお読みになる方は、前号を参照して下さい)

「オレたち忘れないからな」が、人間としての自らへの戒めであるなら、それは意義深いことだ。自らの痛みを知っているからこそ、他の人を傷つけるようことはしないからだ。

しかし、これがある特定の国籍の人間をカテゴリーに分けて罪の意識を感じさせるならば、また、わずかでも怒りを内在させているならば、そこにどれほどの意味があるだろう? 結局、被害者の顔をしながら他を傷つけるような真似をしてしまうのではないだろうか? (イスラエル政府によるパレスチナ人弾圧のように)

それに、「てめえら忘れるなよ!」を言い続けるならば、犯罪加害者の子孫は、被害者の子孫に対して永久に顔を上げられないことになる。

そして、こうした精神構造を、歴史という神話が作り出すならば、それは人類にとって、健康的なこととは言えないのではないか、と思う。

例えばTTという著名な知識人が、「日本は東南アジアで酷いことをしたのだから、広島のことで文句を言うな」などということを書いていた。僕は、「何とバカなことを言う人だろうか?」と思った。

もしその論理がまかり通るならば、以下のようになる。

TTの祖父が人を殺したら、その被害者の子供がTTの子供を殺しても、TTは警察に訴えず、何の文句も言わずに泣き寝入りしなければならない。

一体TTという人には、日本軍によって起きたことと、広島の子供たちが原爆で苦しんで死ぬことが、何ら因果関係をもたせるべき話ではないことが理解できないのだろうか?

僕は、この収容所に漂う無言のやり取り、「てめえら忘れんなよ」、「はい、忘れません」には、TTのようなアホな理屈に陥る危険性を感じたのだ、、、。

もうホントに人間をカテゴリー分けにするのは、ばかばかしいから止めにして欲しい。そう、つくづく思う次第です。

と、ここまでが前回のブログの補足説明でした。

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<収容所を後にした時の写真。僕はガイドとも率直に疑問点を話し合った。彼女は公平で、わりとものわかりの良い人だった、、、>

 

さて翌朝、僕はホテルからセンターまでの10分ぐらいの道行きを歩いていた。ウィーンの街並をゆっくりながめなら、テクテクと歩いた。

そして歩きながら僕が何てつぶやいたかと言うと、“ああ、旅したいなぁ〜”である。(タハハ、、、)

僕がヨーロッパ3カ所を巡回していると聞くと、あっちこっち旅行ができて良いですねー、と思う人がいるかも知れない。

しかし僕にとって、旅は自由気ままに歩き回ることだ。だから、今は「旅」ではないんですよねー。例外的に数時間のぶらぶら歩きができることもある。でも通常は、ホテルとタオサンガ・センターとレストランしか知らない。

しかもやっていることはミーティング、念仏、法話、ワークショップと、日本とまるで変わらないのだよん、、、。使っている言葉だってタオサンガ用語だし、英語でしゃべっていることも忘れてしまうから、感覚としてはまるで金太郎飴のように同じなのである。

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そんな僕のささやかな願いは、海外でもチャリティックス・プレイヤーが増えて、みんなが僕より強くなったり ^ ^ ;)、あるいは互角で気ままなプレイできるようになることである。

というわけで、金曜日は気心道と念仏ワークショップを一日中。夜はアリスが、「チャリティックスやろう、やろう! みんなでやろう!」とアルフレッドに詰め寄り(おお! アリスはやっぱり親友だ)、チャリティックス研究会になった。

そこで知ったのだが、ドイツ語で戦車は「パンツァー」なのだ。(子供のころ、ドイツ軍のパンツァー戦車のプラモデルを作ったような気がするけど、あれって、「戦車の中の戦車」という意味なののかなー? まあいいや。とにかくアリスは、いい奴である。さぞかし、医者としても立派に違いない。アハハ)

注:チャリティックスとは、僕が考案した戦略ゲームのことである。

アルフレッドは、最初は頑固者よろしく「戦争ゲームなんて、、、」などと、ぶつくさ言っておった。(そのため「この頑固もの!」 とか、「全国良い子ちゃん協会会長!」などと僕にからかわれており、本気でイヤそうだった。ふはははは)

しかし次第に熱中していき、突然才能が開花。なんと天才的な技を見せ、毎回勝ち続けたのである! これにはビックリ!

 

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<オリバー(左手前)もなかなかやり手である>

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<左がウィーン生まれのトシさん。ただ今、チャリティックス練習生>

 

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<チャリティックス大好きっ子のアリス(右)>

 

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<観音くん(5才)もチャリティックス・デビュー>

 

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<天才的な技を発揮したアルフレッド。日本チャンピオン高山豊希氏との試合が望まれる>

 

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<ウィーンにもあった、反モンサントの看板。同社のラウンドアップという除草剤は危険だというので、ヨーロッパだけでなく、スリランカでも正式に使用が禁止された。でも、日本のホームセンターでは普通に売っている。- – ;)>

 

さて話は戻るが、土日の2日間はタオ指圧ワークショップだった。(一応、チャリティックスだけでなく、こういうこともするのだ)

ワークショップでは、念仏行における心の集中とタオ指圧の心のあり方が同一であり、両者が不即不離の関係であることを体験してもらった。(これは、最近生まれた全く新しいタオ指圧の技法に基づいたものである)

タオ指圧もやっとこさ、完成の領域に入って来たようだ。あとは、皆さんが念仏三昧と利他行に生きるかどうかですね、、、。(僕はチャリティックスに生きるぜぃ!)

月曜日は、4時まで観光客になれた! うぅ、超うれしー。
方向音痴には、ずば抜けた才能を持つ僕だが、地図を片手に歩き回り、ステファン寺院を目指した。

バスに適当に乗って、降りるときに払おうとしたら、バスの上では払わないらしく、トルコ人っぽい運転手が、親切に無賃乗車させてくれた。

トルコ人は日本びいきである。というのは、トルコは日露戦争で日本が勝ったためにロシアから独立することができたからだ。僕もトルコびいきだ。なんと言ったって、トルコ料理はうまい。バスの運転手も親切だし。^ ^) / (←勝手にトルコ人と決めつけるな)

火曜日は、やっと夏らしくなって来た!
今日は一日ミーティングである。

 

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<数時間の自由を満喫する>

 

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<お上りさんは、わけもわからず写真を撮る>

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<やっとついたステファン寺院(ウィーン観光の中心地)>

 

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<いくらお上りさんでも、馬車に乗る勇気は、、、。ちょっと恥ずかしいもんな>

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<この辺もウロウロ>

 

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<街の間のレストランに1人そっと入って、ランチを注文する。ふふふ、ビバ自由!>

 

 

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強制収容所跡地で僕が感じた疑問とは?

2014/06/10 Categories:

<前回の続き>

収容されていたのは、ユダヤ人だけではない。ナチに反対したドイツ人やオーストリア人などや共産党員などもいた。当時の政治犯もいたし、殺人事件を起こした犯罪者もいた。戦争で捕虜になった人や、何の罪もないのに、ナチによって社会不適格者の烙印を押された人たちもいた。

それにも関わらず、記念館には、ユダヤ人強制収容所のイメージがどこまでもつきまとっていた。それは、ハリウッド映画で観た、ユダヤ人強制収容所のイメージそのままなのだ。

もちろん悲惨であることに変わりはない。しかし、広島の原爆ドームと訴えているものが、どこか違うのだ。

というのは、原爆ドームのように平和への願いや戦争をすること自体の否定よりも、むしろ「てめーら忘れるなよ」。「はい、忘れません、、、」という感じ。そんな無言のやりとりが為されているような気がしてならなかったのだ。

 実際まあそうだろう。ドイツ人やオーストリア人はうなだれ、ユダヤ人や戦勝国は、「オレたち忘れないからな」状態になる。

 

 

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<ガイドの説明は続く。ここは人が縛られて長時間立たされていたところ>

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<沈痛な顔で説明を聞くアルフレッドとウィーン在住のトシさん>

 

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<シャワー室。といっても冷水をかける拷問の道具にもなったそうだ。右はイスラエルから来た訪問者>

 

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<柱にヘブライ語で「復讐」と落書きされている>

 

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<遺体焼却場>

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<ガイドの説明は尚続く。このときのイスラエルからの訪問者は、ガイドの話をろくに聞いていなかったので、”失礼な奴!”と僕はちょっとムッとしたが、、、>

 

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<収容者、全員の名前を刻んでいる。「殺人犯の名前も刻んであるんですか?」という僕の問いに、ガイドの女性は、「そうです」と。悪いことではないが、イスラエルにあるホロコースト記念館とまるで同じなので、僕は???>

 

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<ガス室。もちろんここは、、、。ところでオーストリアでも近年、ヘイトスピーチが盛んで、「トルコ人はガス室へ」という落書きがこの収容者の塀にしてあって、ニュースで大問題になったそうだ。パレスチナの分離壁にも、「アラブ人はガス室へ」というイスラエル側からの落書きがあったのを思い出した。僕は、”てめーが行けよな!”と返事を出したいぜい。もっともヘイトスピーチは、裏で政治的な意図をもって操っている奴がいて、それに踊らされている困ったちゃんたちが、少しはいるという構図だと思う。だから収容所の落書きも、裏で誰かがやらせているのかも知れない>

 

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<絞首台、、、。>

 

収容所記念館の建設には、政治的意図があったのではないか? という疑問が僕にもたげて来たのは、これが作られたのが、戦後わずか3年と聞いてからだった。

戦後の荒廃した状況の中で、食べ物さえまともに供給できなかったときに、なんでまた? 敗戦国であるオーストリアのどこにそんなものを造る余裕があったというんだ!? 一体、そのお金はどこから出て来たんだ?

そんな疑問が湧いて来て、「記念館を作るお金を出したのは?」とアリスに聞いたら、「アメリカのユダヤ人協会でしょう。」との返事、、、。

そもそも、強制収容所の跡地なんて、ドイツの一部だったオーストリアにとっては、恥の象徴みたいなものである。(も し、そういう建造物を作るのが当たり前だったら、先住民族虐殺記念館が、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドにできていなければならな い。)言わば、南京虐殺記念館※を、日本が自ら率先して作ったようなものだ。自国の恥をさらすようなものを率先して作る国があるはずないではないか?

※ 日本軍によって30万人が虐殺されたとされる南京事件だが、歴史的照査に関しては、9. 11のように疑問点が多い。(一例として上げると、国際委員会の活動記録で南京陥落時の人口は20万で、翌月には25万人に増えている)

中国には南京虐殺記念館があるが、こ れが作られる経緯には、反日教育によって国民の意志をまとめるという政治目的があったのではないか?とも思う。

9.11によってブッシュはテロとの戦いを宣言し、国民を自由に拘束できる法案などを可決させた。ブッシュはこの時、自らを十字軍に例えたが、これは人々にアンチ・イスラムの イメージを刷り込むためだろう。

これはまさにナチによる反ユダヤ・キャンペーンと同じ手法である。おそらく彼は、敵を作ることが人々を思い通りに動かすのに、最も都合が良い方法だと思ったのだろう。

さて話は戻るが、そもそもここはユダヤ人強制収容所ではない。いわば網走刑務所のような収容施設だ。そこを記念館とした。そして「ユダヤ人強制収容所」というイメージで誰もが見に行っている。僕には、その不自然さが、どうしても否めない感じがした。

だからか、収容所の中にヘブライ語で、「復讐!」と落書きがしてあった。おそらくイスラエルからの訪問者が書いたものだろう。

おいおい、これは歴史的展示物だろう。落書きなんかしちゃって良いのかね? と思いながら、僕はうんざりするような気持ちだった。

だって、収容所を作ったのも人間だし、入っていたのも人間だろうが。一体、誰が誰に復讐するっていうだよ。人間が人間に復讐するのかよ? まったくもう!

この収容所記念館は、もしかしたら政治的意図があって作られたものではないのだろうか? 僕はふとそう思ったのだ。たとえば日本政府は、中国から教科書問題を出されるたびに、まるでパシリのように中国にお金を出し続けたが、ヨーロッパ人もまた、過 去のユダヤ人への罪悪感があって、イスラエルがパレスチナをいじめ続けるのを横目で見ながらも強いことが言えない。

ヨーロッパは昔から、キリスト教会が 率先してユダヤ人を迫害して来た歴史がある。大戦中もバチカンは、ナチのユダヤ人虐殺を知りながら見て見ぬふりをしていたのである。

ホロコーストの結果、あるいは強制収容所を見せつけた結果(なのかどうかはわからないが)、西欧の支援を受けてイスラエルは建国された。そしてナクバ(注)が起こり、多 くのパレスチナ人が殺されたり難民となったりした。

そして今もなお、占領と空爆その他で苦しんでいる。パレスチナ自体が大きな収容所みたいなものになって いるのである。しかしマスコミは、あたかもパレスチナが独立国でイスラエルと対立しているというイメージを人々に刷り込んでいる。

※ナクバとは、アラビア語で「大惨事」という意味。だが今では、イスラエル建国によって80万人〜100万人のパレスチナ人が家を追われて難民になった、その歴史的なできごとの代名詞となっている。

さて収容所記念館は、果たしてその意図の通りに(?)、一方では人に罪の意識を誘い、一方では人の怒りを誘っている。僕としては、今でも政治の道具として利用されている死者が、本当に気の毒だとおもった。

収容所記念館の礼拝堂で、僕は自分の疑問について話し、しばしディスカッションとなった。その後は念仏して、みんなもスッキリした。少しは死者の魂が休まったり、救われりしたのだろう。

やはり念仏は良いなー。来年、ここで念仏回向の法要をすることになる。タオサンガのキャラバンによって、この記念館が、人の怒りを誘うためでなく、人類の平和のために使われたのなら、死者も喜んでくれるだろう、と重く思った、、、。

 

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<まあじゃあ、ここらでボチボチ念仏でもしようか。それがいい、それがいい、と。>

 

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<ということで念仏>

 

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<では撮影>

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<「みんな、もっと明るい顔でとろうぜ!」と僕は言うが、なかなかならない。まあ無理もないか、、、>

 

しかし僕が思うに、本当に重いのは歴史ではない。歴史という物語を書く側の意図である。

歴史は戦争の勝者が作った夢物語と思った方が良い。僕はそう思っている。
(そもそも今日本に住んでいるわれわれ“日本人”は、おそらく百済から来た人間たちだろうしな。ネイティブな純日本人は、アイヌ人なのである)

ビルマでの英軍の虐殺も、フイリッピンでのマッカーサー軍による虐殺も、酷いものだったらしいが、実際に歴史として残っているのは、日本軍の酷い行為だけである。

だから日本人の僕は、「わーれーは海の子〜♫」ではなく、「わーれーは罪の子〜♫」なのだ。16歳の頃の僕は、東南アジアの人たちに、本気で土下座して謝って回りたいと思っていたぐらいである。(当時これを言っても、誰も僕が本気だとは思ってくれなかったが、、)

このブログの最初の書いた、この収容所の「てめーら、忘れんなよ」という言外のメッセージだが、僕には以下のように聞こえてしまうのだ。つまり、、、。

かつてA人はB人を殺した。だからB人の子孫は、今後もA人として生まれた人間に対して、「おめえら忘れんなよ」と言い続けるぞ。そしてA人の子孫は、代々これからもずっと、B人として生まれた人間に対して、罪の意識をもたなければならないのだぞ、と。

かつて知の巨人として日本で有名な人間(名前は伏せる)が、「日本は東南アジアで酷いことをしたんだから、広島のことをとやかく言う権利はない」などと書いていた。全くむちゃくちゃな話である。まるで、「日本人の父親が東南アジアで酷いことをしたから、広島の子供たちは原爆で殺されても文句は言えない」と言っているのと同じようなものだ。「加害者の子供は死んで当たり前」ということなら、まず、自分が切腹すべきである。(あっ、ちょっと怒っちゃった)

しかも、話が飛んでしまった、、、。(反省!)
人間をカテゴリーに分けるのは、一番愚かなことだ。
「何々人」という民族カテゴリーや、その他、様々なカテゴリー分けがある。性別、年齢、学歴、出身、その他もろもろ、、、。

あぁバカバカしい! 分別ゴミじゃああるまいし。人を分けて観る奴はバカだ、と心底思う。だいたい、そんなものの見方をしていると、運気が落ちるぜい。

世界のあらゆる問題は、そんな小さなところから生まれている。このことを人は意外と知らないのではないか? (これはとても大切なことなんだけど) だから、人をそんな風に見るのをやめよう、と僕は言いたい。

ほんとうに言いたいのは、「あたかも樹や花を見るように人を見て、運気を上げよう! 」である。

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強制収容所の跡地記念館を訪問する

2014/06/09 Categories:

第二次世界大戦当時、ヨーロッパには多くの強制収容所があった。その跡地の多くは記念館として残されているが、ウィーン近郊にもある。タオサンガで計画している来年のピースキャラバンで、法要を行う予定の場所である。

今日は、そこを訪ねた。英語のガイド付きである。ただし寒い! 雨も降っている。まあ寒さに震えるのは、当時に収容者の気持ちに、1億分の1でも近くて良いのかも知れない、と思った。

運営していたのはナチ親衛隊、悪名高きSSである。当時の収容人数は20万人で、10万人が亡くなったという。収容されていたのは、ユダヤ人だけではない。一般の凶悪犯罪者もいた。

また共産党員、政治犯、ジプシー、障害者など、いわゆるナチの教義では、社会人不適格者の烙印を押された人たち。その他、ロシア兵など、諸国の軍事捕虜も収容されていた。

広大な施設ではあるが、小学校の教室みたいなところに詰め込まれていた人数を聞いて驚いた。何と1000人である。半端な数ではない。狭いベッドに2人で寝かされていた。また、床で寝ていた人も多かったそうだ。

 

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<収容所の入り口に向かう、タオサンガ一行>

 

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<ガイドの女性から説明を受けながら周る>

 

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<ユダヤ教を象徴する燭台の形をしたオブジェ>

 

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<手前はアリス。寒く雨も降っていた。帽子をかぶっている>

 

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<収容所の中>

 

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<監視人用の入り口でも狭い>

 

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<この部屋に1000人が詰め込まれていた、というから驚きである>

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<狭いベッドに2人が寝かされていた>

 

ここは、すべてが当時のまま残されている。オーストリアの中高校生は、授業の一環として、必ず一回は見学に訪れることになっているそうだ。

この記念館(というか記念施設)ができたのは、大戦終了後のわずか3年後だという。

雨の降る寒い中を、薄着で3時間ほどガイドの女性につれられて歩き回った。(途中、アリスが防寒着を車から取って来てくれた)しかし時間がたつに連れ、やがて僕の中に、ある疑問が芽生えて来た、、、。

 <続く>

 

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ヨーロッパ行脚のはじまり

2014/06/08 Categories:

着いたらすでに夜。もう5月中旬だというのにウィーンはまだ寒かった。

ウィーンの空港には、アルフレッドとアリスが迎えに来てくれていた。アルフレッドは、ウィーン・タオサンガセンターの道場主。アリスは、女医でタオ指圧をやっている念仏者だ。

 

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<アルフレッド/ 頭が大きいので地蔵というあだ名がある。元ジャズのピアニスト>

 

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<アリス /  チャリティックス大好きっ子>

 

最初にアリスに会ったのは、2003年。タイで開催された、第一回目のタオ指圧世界大会のときである。その時はまだ医学生だった。

また彼女は、無類のチャリティックス(僕が考案した戦略ゲーム)好き。だから僕にとって、親友みたいなものといえる。

本人曰く、2003年のタイ大会でチャリティックスやって、「ああ、私はタオサンガにいたい!」と思ったそうである。

タオサンガは、おマジメな修行集団でなかった(今もそう)。戦争ゴッコみたいに「バン!バン!」なんて、まるで子供まるだしである。みんなで遊んでいる姿が、彼女をホッとさせたとのことである。

中には、「戦争ゲームをするなんて、、、」と眉をひそめる人もいるだろう。なに、かまうもんか。そういうのでホッとする、粋な仲間だっているんだから。

また、アリスの念仏での神秘体験については、和田寺で発行している「寺がーる」というフリーペーパーで、三号に亘って紹介された。ご存知の方も多いと思う。

 

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http://taosangha.com/temple-girl/vol-04/

市内に入ってから、遅い夕食を食べに行った。まだ時差ボケだ。3人で四方山話をした後は、ホテルにチェックイン。

バスタブに浸かっていたら、いつのまにか眠ってしまった。ふと気づいてベッドに倒れ込んだつもりだった。すると今度は、電気をつけたまま眠ってしまった。日本でもギリギリまで、なんだかんだやっていたからなぁ、、、。

翌日からはミーティングで、夕方からは、法話と念仏ワークショップである。

ワークショップをやる前、「3時間もどうやって時間を持たせようかな、、、」なんて、ちょっと弱気になっていた。だが気づいたら、休みもなくいつの間にか3時間以上たっていた。

あれま、驚きましたね! きっと参加者が、集中力をつけて来たんだろうな〜。参加者が、あっ!と言う間だった、と言っていたから。

<続く>

 

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新しい小学校の開校に向けて

2014/03/06 Categories: バングラデッシュ支援

クルスクル村の学校でも同じように活動した。子どもたちと会い、聞き取り調査をし、先生たちとミーティングを行うのだ。

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しかしミーティングをしていても、ラカインの人たちは慎み深いというか遠慮しいである。こちらから要望を聞いても、なかなか返事をしてもらえない。

僕は強く訴えなければならなかった。「僕たちの目的は同じです。それは、ラカインの子どもたちの将来のためです。そのために、お互いここミーティングしているんです。だから遠慮していないで、ちゃんと要望を出して下さい」

その結果、ようやく以下のようなものが出された。

1)親が助かるし、アイデンティティー形成にも良いので、学校の制服が欲しい。

2)独立記念日に運動会をやるので、賞品を買いたい。

3)卒業生だが、家が貧しいために上の学校の学費に苦慮している。サポートをして上げたいが、何とかならないか?

僕らは以下のように答えた。

1)制服については、予算を組みすので、見積もりをお願いします。

2)運動会の賞品は、ラジョーさんと一緒に買い物にいって下さい。

3)その子の写真、プロフィール等の詳細なデータを下さい。ラジョーさんが面接した上で、NPOユニが支援してくれる里親を探します。

その後、ラジョーさんが定期的にチャリティックスと念仏を教えに来ることなどや、今後のいろいろなことについても話し合った。

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<教室で、日本から持って来た“はちみつキャンディ”を配る>

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 <おみやげを喜ぶ子ども>

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<うあ、おいしい!>

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<いろんな年齢の子が通っている>

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 <実は校長もチャリティックス大好き!>

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次にチョコロンギー村を回った。クルスクル村から、さらに河を越えて行ったところだ。昨年は、ボートで渡った。でも、今年になってようやく橋が完成。思ったより短い時間で着いた。

ここは昨年、ラカイン仏教福祉協会の長老たちにサポートを要請され、調査に訪れていたところだ。

そのとき、村の主だった人たちが集まり、かなり具体的な話までした。しかしその後、進展がないままだった。僕は今年こそ、実現に向けて動きたいと思っていた。

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<この村には、河を越えて行く>

昨年、僕らは村のリーダーたちに、村の孤児たちのリストを集めることを依頼していた。今年行ってみると、それらのリストはすでにできていた。17人の孤児(片親のいない子も含む)がいるという。

学校として使う建物の候補を見に行く。でも、うーん、ちょっと狭いなあ。という感じだった。その場でずい分議論した。しかし、最適な学校候補地についての結論は出なかった。(後日、仏教福祉協会を通してお寺と交渉。その結果、お寺に併設された建物を学校として使うことになった)

村でのミーティングのとき、村のリーダーの言葉が僕の心をついた。

「10年以上前まで、ワールド・ビジョンという団体の援助で、学校を開けていたこともあった。でも期限が来て打ち切られてしまったんだ。ワールドビジョンって、キリスト教の団体だろ。でもNPOユニは仏教の団体だ。ユニがラカインの仏舎利塔を修復してくれたことは、村のみんなも知っている。仏教の団体からの援助なら、たとえ1円だってオレたちは嬉しいんだ」

 チョコロンギー村。新しいラカイン・ユニ小学校の開校だ。

 

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<とことん話し合う>

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 <最初の話し合いで出た候補地>

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<これではちょっと、狭いですねー>

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 <仏教の支援団体が来てくれたのは初めて、と語る村長>

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 <孤児の1人。この子も里親が現れるのを待っている>

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ミャンマー国境に近い村へ

2014/03/05 Categories: バングラデッシュ支援

ほんの1年前までは、毎朝5時に街中に鳴り響くコーランの大音響に起こされていた。それが今年からはすっかり静かな響きになった。

おかげで眠れるようになった。そんなところにも、バングラデッシュの最近の変化が感じ取れた。

 さて、朝起きて居間に行くと必ず見る光景は何か? ラジョーさんの息子セナ君(7才)が、熱心に研究している姿である。夜も寝るまで研究し、学校からから帰ったらまず研究。ひたすら研究の日々なのである。

研究って何を? ゲーム・チャリティックスの戦法である。一人で黙々と研究している様は、まるで将棋のプロ養成所、奨励会の少年のようである。そして実際、普通の大人ならまず勝てないほど強い。デフェンスなどは、チャンピオン・レベルである。

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<セナ君(左)は、朝から晩まで熱心にチャリティックスを研究している>

朝は居間で、ラジョー一家と日本からの一行の4人、総勢8人で念仏のお勤めを行う。(子どもたち2人も参加している)そして、簡単な朝食を済ませると出発である。 今日からは村をいくつか回り始める。

ガタガタと砂埃を上げて走って行く車の中で、まだかな? 着くのはもうじきかな? といろいろ思うのを諦めた頃。やっと着くのが、チョドリパラという村。

NPOユニが運営しているラカイン小学校があるところだ。片道3時間半の道行き。道が良いわけではないから、まあ楽な道程というわけではない。

子どもたちのお出迎えを受け、挨拶やお話しをしたり、お土産を渡した。またチャリティックスで遊んだりした。

その後は、新しく赴任した僧侶を交えて先生たちと懇談。そして、17人の孤児(両親、または片親のいない子どもたち)一人一人と会って、将来の夢などの聞き取り調査を行った。

このファイリングを元に、帰国後、この子たちの里親(月3000円+NPOユニの月会費500円)になってくれる人たちを日本、北米、ヨーロッパで募るのだ。

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 <車はただひたすら走る>

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<諦めた頃にやっと着く>

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<歓迎の花を差し出してくれる子どもたち>

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NPOユニは、2007年から、バングラデッシュの少数民族・仏教徒であるラカイン人のための小学校を支援している。

里親からの支援は、孤児たちの学費や食費の他、今後開校する新しい村の小学校の先生たちの給料(政府から援助はない)にも当てるなど、学校の運営費になる。

ユニセフなどの大きな団体だと、経費の占める割合が極めて大きいようだ。(まあ無理もないのかも知れないが)その点、NPOユニは違う。里親からの3000円は、そのまま孤児とラカインの小学校のために使われるのだ。

そしてここはさらに自信持っちゃうところだが、里親には3ヶ月ごとに子どもからの手紙、写真、先生からの簡単な報告等が届く。

ラカインの村は、全部で17。しかしその内、ラカイン小学校が開校しているのは、NPOユニが支援している2つの村だけ。

こんな辺鄙なところには、海外からの支援もあまり届かない。でも、NPOユニは、今後他の全部の村の小学校も開校していくつもりだ。

ミャンマーから来たという新しい若いお坊さんはマジメそうな人で、僕はとても好感を持った。今後、学校の運営にも積極的に関わって欲しいと思う。

僕は先生たちに、「必ず、子どもたちが英語を普通に話せるようにして欲しい」と要求した。そして、英語の先生をもう1人増やすことを提案し、以前いた年輩の先生を呼び戻して欲しい、とも伝えた。

村でお昼を頂いた後は、少し休み、家路に着く。再び3時間半の道行き。途中、ミスター演説ことカリム氏の事務所に寄って大歓迎を受ける。

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 <新規赴任のお坊さんを交えてミーティングする。僕は先生たちに、子どもたちにはぜひ夢を与えて欲しい、と熱心に伝える>

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<“NPOユニの皆さんには、心から感謝しています”と新しいお坊さんは語る>

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その後、孤児たちにも1人1人会って、夢を聞いたりなどのお話しする。以下は孤児たちの一部の写真。

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<“夢に向かって、走れ少年!”>

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 <この子らの“未来に幸あれ!”と願わずには、、、>

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<“この子たちの里親になって、夢を与えてくれる人を探そう”と思う>

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 <彼が裸足なのを見て、“靴のプレゼントを持って来て良かったな”と思った>

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<見送りに来てくれた子どもたちと、”また遊ぼうね!”>

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夜は、今後の展開についてのミーティングで話し込んだ。そのとき、まったく新しい発想が閃いた。

 それは、“ラジョーさんが定期的にラカインの小学校に、チャリティックスと念仏を教えに行ったらどうだろうか?”というものである。

 というのは、今後、コックスバザールの2つの小学校では、学校の課外プログラムとして、チャリティックスが始まる。ラジョーさんはそれの指導にも行くようになる。“ならば、ラカインの小学校でも同じことをすれば良いではないか!”と、僕は思ったのだ。

ベンガル人系の小学校では、チャリティックスの指導はできても、イスラム教徒だから念仏は無理だ。だが、仏教徒ラカインの小学校なら、念仏やその他、タオサンガでやっていることをいろいろ教えることが可能だ。

ちょっとイメージしてみたら、“きっと面白いだろうな!”と思った。それでラジョーさんに提案したのである。もちろん、彼も大賛成である。

 実はこれ、今までは全然考えつかなかった。というのは、僕には「キリスト教は、援助しながら布教する」というイメージがあった。(もちろん、そうじゃない人もいるだろうし、もしかしたら僕の偏見なのかも知れないが)

いずれにしても、そのようなやり方に僕は違和感を持っていた。援助者は、その土地の文化を尊重し、それ以上は立ち入るべきではない、という思いを強く持っていたのだ。

しかし、そう思ってずっと接して来たラジョーさんが、いつの間にかタオサンガの念仏者になっていた。僕からは一言もいわなかったのにも関わらず、、、。

そして今やコックスバザールで念仏を広め、「念仏していると幸せだ」という人たちまで生まれているのである。

 ならばいっその事、ラジョーさんが念仏の坊さんになって、この地で念仏を広めたらいいやん、僕はそう思ったのだ。(ラジョーさん、すでにラカインの坊さんを一度やっているし)

※ところでラカインの子どもたちを援助する里親になってくださる人がいらしたら、ありがたい! ぜひご連絡下さい。僕のFacebookメッセージでもいいし、NPOユニのウエブサイトを通じてでも。

 

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大ごとだった!大学でのゲーム大会

2014/02/23 Categories: ゲームCHATRANGA バングラデッシュ支援

  こんなに大ごとになるとは思っていなかった、というのが最初の僕の感想である。会場には何百人といる上、花や壇上まで用意されている。

そして学長、教頭先生など主だった大学関係者たちと一緒に、僕は壇上に上げられた。その上、スピーチまで求められたのだ。

 

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<来賓の祝辞>

 

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<学生たち>

 

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<学長のあいさつ>

 

これでは、“ねぇ、面白いからみんなで遊ぼうよ〜”なんて、言ってられない。

さて、開会式が始まり、来賓は次々と祝辞を述べる。

 

学部主任は、“これはかつてないイベントです”というようなことを英語でスピーチした。さらに、“GAMEチャリティックスは数理をイメージ化するゲームであり、これの哲学的な世界云々”と語る。    

僕を、“そこまでチャリティックスについての理解が進んでいるのか!”と驚いた。 

それにしても、冷や汗どころの騒ぎではない。いつまでも終わらないのは、カリムの延々と続くチャリティックス論の演説だった。    

そしてそれに耐えている自分は、何だかインドのコメディ映画の役者にでもなったような気分になって来た。今にもダンサーたちがまぎれ込んで来て、みんなで一緒に踊り出すのではないか、と思ったほどである。

 

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<チャリティックスとは〜、というカリム氏の演説が止まらない>

 

やがて指名を受け、僕がしたスピーチは、カリムの100分の1にも満たない短いものだが、それは以下のようなものだった。

 

“人生は目標に向かって戦略を立て、選択を決断していくことで成り立っています。僕が、このゲームを創ったのは、人々に、人生で成功するための戦略や決断のスキルを磨いて欲しいと思ったからです。さらに人と人が、国境を超えて友だちになって欲しいと思ったからです。

 

僕は皆さんに、このゲームを通して、国境を超えてたくさんの人と友だちになって欲しいと思います。また、自己実現に必要な、戦略や決断力を磨き、ぜひ良き未来を創って頂きたい。そう心から思っています。今日は参加してくれてありがとう”

 

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<ラジョーさんがベンガル語に通訳>

 

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<開会式に立ち上がって拍手する人>

 

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<さあ、いよいよか?>

 

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<始まるぞ〜!>

 

いやはや大変な1日になった。300人以上もの学生たちが入り乱れての対戦である。勝った回数での順位戦なので、誰が勝ったかなどの統計も取らなくてはならない。もう、“わいわい、ガヤガヤ”どころの音量ではない。

 

講堂の半分は、もはやマイクの声だって聴こえやしない。にも関わらず、マイクを使って演説をがなり立てているカリムと、その部下。講堂は、僕たちに“バングラデシュの選挙って、きっとこんな感じなんじゃないかな〜”と思わせるほどの騒然ぶりであった。

 

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<講堂全体が熱気に包まれている>

 

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<女子学生も負けていない>

 

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<一見地味だが熱気はすごい>

 

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<数理をイメージ化しての読み合い>

 

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<哲学的理解をしていそうな女子学生>

 

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<真剣である>

 

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<まず一勝したわ!>

 

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<緊迫感と楽しさが入り混じった空気>

 

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<やったー!>

 

勝敗の統計は、モングやナイナイなど、ラカイン人(NPOユニが支援している少数民族仏教徒)のボランティアたち数人で走り回って行っている。しかし、300人以上もの人数が相手では、とても人手が足りない。

 

また中にはルールを間違えて憶えている人もいて、僕らも走り回って、直したりした。(英語が通じない人もいて、そうなると怒鳴ってボランティア・スタッフを呼ばなければならない。しかし講堂は、カリムの演説とみんなのガヤガヤ声の音量のため、それも聞こえない)

 

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<汗だくで走り回る、ラカイン人ボランティアのナイナイ>

 

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<僕らも大声でどなりながら(講堂全体が大音量のため)、必死にルールを訂正して回った>

 

1時間後、先生が走り回ってストップをかけた。そして勝敗を計算し、4位までの入賞者が決まった。

しかし、すったもんだが始まったのはこの後である。なんと発表後に、勝敗統計の見落としが見つかったのだ。あっちゃー!

 

そこで壇上で、先生が発表を訂正した。ところが、女学生を含めて何人もが手を上げて、「先生! 統計の発表に間違いがあったのなら、私はもう一度、最後のトーナメントを行うべきだと思います!」などの主張が次々と繰り広げられた。

僕は驚いた。と いうのは、僕はてっきりイスラム教の女性は、「慎み深く、男性の先生に反対意見を言うことなんてない」と、思っていたからだ。

しかしこれは、「日本の女性 がみな大和撫子である」とイメージする、西洋人男性の精神構造と同じ勝手な思い込みだった、と気づいた。(東西変わらず、男性というのは自分好みのイメー ジを女性に投影するものなのだ)

 

まあ結局、感じの良い熱血先生がうまく話をまとめてくれた。そして最短の時間で、最後のトーナメントを、やっと終えることができたのである。

 

またその頃には、学長たちなど主賓が再び壇上に登り、授賞式が行われた。11時から始まったイベントは、かくて無事終了したのである。時間は、すでに昼の3時ごろであった。

 

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<“上位入賞者を発表します!”>

 

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<学長から賞状の授与>

 

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<優勝者の授賞式>

 

大学からラジョー家に戻った僕たちは、ボーッとあまりものも言わずにお昼を食べた。そして、各自しばらく昼寝して休んだ。ナイナイなどのボランティアたちも、センターで寝ていたらしい。

そりゃそうだろう。無理もないな、と思った。300人以上がガヤガヤと騒然とし、その上マイクががなり立てている中で、ずーっと走り回っていたのだから。

 

夜には、翌日から回る、ラカインの学校や村についてのミーティングを行った。朝昼夜、バングラデッシュ滞在中はフルに活動するのである。

 

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