2016/09/24 Categories: 未分類

「人生に疲れた人は私のもとに来なさい。休ませてあげよう、あなたを」

これは、聖書に出てくるイエス・キリストの言葉である。

イエスは常に、人の悲しみに寄り添い、そして一度人生を横切った人の苦しみは、生涯背負い続けた。

今度は仏教に目を転じてみよう。

菩薩とは、どんな人のことを言うのだろうか?

経典に説いている。「生きとし生けるものを、自らの荷物のように背負う。(群生を荷負し、己れが重担と為す)者が菩薩である」、と。

人は菩薩やイエスのような、慈しみの心を示す行為に、心打たれる。

なぜなら、自らの損得を超えて、他者を思いやる慈しみの心の背後に、神や仏が存在していることを感じ取るからだ。

“何としてでも神・仏の存在に気づいて欲しい。”

そう思う僕は、菩薩的生き方を志すのがタオサンガだ、と思っている。

そして生きている内に、一人でも多くの菩薩たちに出会いたい。

そう、心から願っている。

自らを犠牲にしてでも、人の為に生きたいという欲求。

イエス・菩薩のような利他の欲求を、人は必ず内在していると信じているからだ。

ただ、時々思う。

どうして、他のために尽くしたいと思う、イエス的/菩薩的な利他の欲求が明確な人と、そうでない人がいるのだろう?、と。

もちろん一般的な風潮は違う。

自己犠牲を厭い、自らの安楽を選ぶのは、普通の生き方なのかも知れない。

もちろん、自分が楽する方を選んだ人は、得したように見える。

しかし、そんな行為に感動する人はいるだろうか?

それはかっこいい生き方だろうか?

それは美しいだろうか?

その行為の背後に、宇宙大霊の実在を予感する人はいるだろうか?

私たちは、得をするより、楽をするよりも、

かっこよく、気高く、そして美しく、ありたいと思うべきではないのか?

見てくれなんかどうでも良い。

だって、生き方を、行為を、いくらでも美しくすることはできるんだから。

存在そのものをアートにすることができるんだから。

迷わず、みんなの喜びのために、自らの心身の苦を厭わないイエス的、菩薩的な行為。

それは、殺伐としたこの世に生きる人の心のどこかを、必ずや温かいものにしている、はずなんだよ。