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僕が先生と呼ばれたくないわけ « Blog
2013/02/22 Categories: 未分類

タオ指圧を教えて来た。
その流れからだが、利他について話すことが多い。
理由は単純である。

自分が受ける側になったときのことを想像して欲しい。
誰だって、自分が患者さんの立場になったらわかることだ。
施術を“飯の種”と思って診ている人よりも、“病気になった子を想うが如く”、親身になって指圧施術してくれる人から受けた方が、癒されるに決まっている。

また実際、そういう人でないと、気と経絡の施術にはならない。
だから僕は、経絡施術をやりたいと思っている人に対して、利他の修行や活動を説いて来たのである。

しかし、これは何も“そうしなさい”という意味ではない。
人様に、何かしろ、というほど自分がエラいなどと、僕は思っていない。

“気と経絡の施術をするなら、日常的に利他の心と行動が必要なんですよね。それが無意識になるには修行が必要なんですよね”と言っているに過ぎない。

言わば、
“魚を釣るなら、釣り竿にえさをつけて垂らしましょう。”
“郵便局に行くなら、そこの角を曲がりましょう。”
“明日は雨ですから、傘を持って行きましょう”
のように、釣りのノウハウや地図、また天気予報などの情報を流しているというに過ぎない。

まさか、交番でおまわりさんに道を聞いて、“あっ、先生!”などとは呼ばないだろうし、天気予報のおじさんを「天気予報の先生!」と人は呼ばないだろう。
先生とは、もっと厳めしくおごそかに、“あなたは何々しなさい”と言うものである。

僕は、タオ指圧を習いに来た人とは、「共通の目的」を持っていると思って来た。それを前提に話しているつもりだった。

共通の目的とは、“気と経絡で人を癒す”ことだし、“最高最善の施療を人に施そう”ということだ。

それには日頃の「利他の活動や修行があると良いですよ」というのは、ボディビルのトレイナーが               “筋肉つけるなら、プロテインのサプリが良いですよ”とか、スポーツトレーナーが、                    “タイムを上げるには、筋トレやりましょう”と勧めるようなものである。

ところだ、だ。なぜかそれを、あたかも僕が“XXしなさい”と言ったようにと誤解されてしまうことが。これまでよくあった。
これにはちょっと参る。

まず僕は、人に何か指図するということがキライである。
それはなぜか? 自分が人に指図されたくないからである。

それに、“人から言われたから”としぶしぶすることで、人が成長することはない。そう僕は思っている。

僕自身が、人に言われて何かをするということは、まずない。(多分、ウチの奥さんはそれで困っているかも知れないが)

だから人に”何かをしろ”というつもりは全くない。
だけど、僕としては、人の希望には責任を感じる。そこで、“気と経絡で人を癒したいのなら、XXしたらどうですか?” と言ってしまう。

くどいようで申し訳ないが、それは、“お酒買いたいなら、そこの道を曲がったところに酒屋があるから、次の道を右に曲がった方がいいですよ”とか言うようなものである。

だから、もちろんこれは指図ではない。ただ、ご本人の希望が叶う方法を知っているのに、アドバイスもしないというのでは、僕としては申し訳ないのでせざるを得ない。

もしその人が掘り出せる宝が、10メートル下にあるならば、“シャベルで掘って下さい”と言うより他はない。知っていながら何も言わないのでは、職務怠慢というよりも人として問題だしなあ、、、。

いやしかし待てよ。もしかしたら、この“XXして下さい”という言葉が問題なのかも知れない。なぜなら、掘っている内に、いつの間にか、“先生に言われたから掘っています”
という風になったりするからだ。

あっちゃー! いつの間にそんなことになったんだろう?、と思う。

“私が一生懸命やっているのに、先生は誉めてくれない”と言われたこともある。
あっちゃー! その人は僕のためにやって下さったんだろうか? 

もし最初から、“先生のために、支援活動やります”なんて言われたら、僕は即座に土下座して、                ”どうか、お願いだから何もしないで下さい”とお願いしていただろうに、、、。

“私、がんばったけど、先生は認めてくれないし、もう役割は果たせません”という言葉を聞いたこともある。

あっちゃー! 僕は人に役割を押し付けるなんていいう、犯罪者まがいのことをいつの間にかしていたんだろうか?

僕は、人からそんなことを言われると、取調室で刑事に、“おまえが悪いんだぞ”と言われているような気になる。僕は、“はい、私がやりました。私が悪うございました”と、思わず言ってしまいそうになる。

しかし待てよ。僕は宝の取り方や美味しい居酒屋の情報を流して、“こんなのどうですか?”と提案しただけである。
それはあくまでも、同じ目的を共有していると思ったからした提案だったのだ。

僕は、「サル蟹合戦」の桃太郎、猿、蟹みたいに“鬼を退治する”という共通の目的を持っているという前提で 、おむすびを配る。

けれど、「言われたからやりました」という気配を感じたとき僕は、目的を共有しているというのは、どうも僕の思い違いだったのかも知れないな、と思う。

なぜなら、言われてする、ということは、やりたくないけど言われたからする、ということに他ならない。

それはたしかに、シャベルで掘るという作業は、なかなか大変だ。
だからと言って、僕があたかも“何々しなさい”と言っているように認識する底には、無意識の不満がくすぶっている。やがてその誤解は、意識的には無意識的にかは別として、僕を怒りの対象とするようになる。

でも、宝は自分の足下を掘らなければ出てこない。
自分で掘り出すという行為を抜きにはできない。
どんなに僕が宝を差し上げたくても、それはどうしても無理なんだ。

自分が吸う酸素しか呼吸できない。
自分が摂る栄養は、自分の歯と胃で咀嚼するしかない。
自分の無意識に眠る宝は、自分の修行と活動で覚醒させるしかないんだ。

だから僕を「先生」と呼ばないで。
僕は、宝の地図と行き方を教える情報屋に過ぎないんだからさぁ。

その代わり、情報が間違っていたら刑期を勤める覚悟はできています。

と、まあ、こんな気持になることもある。